***太極拳 常識の嘘Q&A****
Q.
太極拳は、武術として使えるのですか?
A. 元来、太極拳はすべて武道であり、武道でない太極拳が誕生したのは、革命政府の中国においてです。いわゆる、毛沢東と中国共産党の指導の下、中国人民の疲弊しきった健康状態の回復と、特に結核治療を目的に、更に長い戦争によって衰弱し切った精神、意識の高揚を目的に、誰にでも取り組める簡化太極拳24式が編纂されました。
しかし共産党政府は、武道としての太極拳が民衆の手に渡ると、自らの国家に対する多大な脅威になりかねないと恐れたために、その武術的要素を排除させ、代わりに当時の友好国であったソビエトのバレエやコサックダンス、革命歌劇等の胸を張ったり、膝を深く曲げる姿勢をたくさん組み入れて、武術としては使えないが、見た目の非常に美しい太極拳をつくり出し、これを国内さらに全世界に普及していきました。
しかし、バレエやダンス、革命歌劇等の姿勢を取り入れたため、姿勢動作に不自然さが生まれて、結果、高齢者には不向きな健康太極拳が出来上がってしまったことは、皮肉としか言いようがありません。実際、故障者が後を絶たないようで、練習の前後においては十分な準備運動が欠かせないとのことです。本当の太極拳は、無理な動作が無いため、殊更に準備運動を念入りにする必要がありません。無理な不自然な動作は、それ自体が実戦の場において、命取りになる故にです。
一方、伝統的な武術家たちは、革命思想を背景とした政府に協力することを拒み、大陸においては地下活動的に技を継承するしかなくなりました。かろうじて台湾(中華民国)に逃れた武術家は、その地で優れた武術を継承し続けました。或いは英国領香港の地で、伝統武術を継承し続けました。この台湾や香港に伝わる太極拳は、紛れもなく武術として使えるものです。
Q. 太極拳は陳派が源流だと聞きましたが。
A. 陳派が太極拳の源流という事は、説に過ぎません。実は河南省陳家溝という場所には、元来太極拳は行われていたかどうか、不明なのです。陳家溝という場所に、太極拳の看板が掲げられるようになったのは、比較的現代になってからだと言われています。その地には元々河南省嵩山の少林拳心意把や河南派形意拳、心意六合拳や砲捶のような震脚を伴う北方の激しいの拳法が伝えられていて、そこではおもに剛的な拳法が行われていたと言われます。その地に、楊派の太極拳の始祖であると言われる楊露禅が道場破りに赴いて、陳一族のすべての使い手を打ち破ったのが真相ではないかと推測されるのだそうです。
楊露禅の技は、陳家溝の者たちの激しい剛的な技とは全く異なっていて、柔らかく綿を紡ぐような拳であったと記されています。この柔らかい拳こそが太極拳なのです。その柔らかい技は、古くは張三豊から伝えられた拳だと言われるものでした。化勁に優れ、雲がふわふわと浮くような動作だったと言われます。そしてことごとく陳家に伝わる武術を圧倒していったのです。
技術的観点から見ると、露禅の技は、陳家に伝わる武術より明らかに数段優れたものであり、楊派が陳派から生れたとする説は、むしろ不自然過ぎるとのことです。実際、露禅の印象は、フランス料理の世界に、忽然と日本料理の和食の名人が現れたような感じなのです。もっと別の言い方をするならば、ライオンの親が、人間の子供を産んだような、突然変異に相当するような、異質さなのです。そのくらい陳家溝に元からあった技とは異なるものだった訳です。さらに陳長興が、そのような陳家溝の中で、弟子たちにその柔の技を教えていた痕跡が見つかりません。調べれば調べるほど、激しい技が練習されていた記録しか出てこないのだそうです。そこで、おそらく楊露禅は王宗岳から直接「太極拳」の技を伝授されていたという見立てが立ってくるという訳です。中国社会では、面子を尊重することが取り図られます。その流れで、楊露禅は陳長興から教えを受けたことになったのではないかと想像できる訳です。そう考えざるを得ないくらいに、太極拳は異質で神秘な拳法だということです。
(今日通説だとされているのは、山西省の人である王宗岳が、河南省の陳家溝を訪れて皆を打ち負かし、代表の陳長興に技を伝授した。そこで伝えられる技を、楊露禅が訪れて学び、やがて頭角を現して、陳家溝では誰も勝てるものがいなくなり、諸国を回っても誰にも負けず、やがて「楊無敵」と称されるようになったというものです)
尚、技術的観点から、王宗岳が伝えた太極拳の原理は楊露禅に伝えられたと見ることが出来る訳ですが、実は露禅以外にも武禹襄にも伝えられたと考えられるのです。露禅と禹襄は、実は幼友達でもありました。今日の太極拳は、この二人によって創始された可能性が高いのです。楊派も武派も、ともに王宗岳の伝えた太極拳の原則を満たしているのです。
当会NSC代表の鈴木良之会長は、本年2023年の3月に、この武派太極拳の第六代正式伝承者である劉紅年老師より、武派太極拳の技を伝授されることが許可されました。このことは、大変画期的なことであります。何故ならば王宗岳の伝えた「太極拳」の実像が、楊派武派の技術から、読み解ける可能性があるからです。陳派が主張している陳長興起源説、或いは王宗岳が陳家溝に来訪する以前から、太極拳は既に陳家溝に存在していたとする陳家起源説が大きく揺らいで、太極拳界及び中国武術界に激震が走ることは確実です。
Q. 王樹金先生について、教えて下さい。。
A. 王樹金先生は、天津の出身で、渡台前は大陸で、張占魁先生に形意拳と八卦掌を学ばれていたようです。その後、王向斎先生から、大成気功と、散手を学ばれたと見られています。ただ張占魁門下でのことは、多くは話されなかったようです。何故かというと、王樹金先生は、革命政府からの追及から逃れるために、密航同然で天津を離れて、台湾まで亡命されたのです。このような武術家は大勢いて、螳螂門の高道生らも脱出して台湾に渡りました。八極拳で有名な劉雲礁らもそうでした。その当時、かつて同門だった仲間たちは、その後大陸で厳しい状況に置かれ、文化大革命時には多くが命を落としたと言われています。そのような状況に鑑みて、皆口を閉ざしたのです。張占魁の弟子に、姜容礁がいます。彼は大陸で大変な苦労をした武術家です。その弟子の沙国政と何福生は(彼らも苦労されたようです)訪日経験もあって、有名ですが、二人が東京蔵前国技館で表演した際、張占魁から伝わっている筈の、形意拳の跟歩を、あえて隠して演じていました。如何に政府から監視されていたかということを、暗示しています。1970年代後半の頃は、まだ当時の中国共産党政府は武術家を、反革命的だと厳しく捉えていたのです。台湾での下手な発言一つで、同門の仲間に禍が容赦なく降り注ぐ状態なのでした。それで、王樹金先生も含めて伝統武術家たちは皆、大陸に残っている同門らについての事は、固く口を閉ざしました。
Q.王樹金先生の、形意拳と八卦掌の系譜は、どのようなものですか。
A. 王樹金先生は、天津時代に張占魁より形意拳と八卦掌を学びました。そして天津の第一国術館の簫海波より八卦掌を学んだと言われます。さらに渡台後は陳泮嶺先生より李存義の形意拳と、程海亭の八卦掌の教授を受けています。八卦掌に関しては、張占魁、簫海波、程海亭の三つの系譜、形意拳についても張占魁、王向斎、李存義の三つの系譜を学んでこられたことになります。現在、弟子たちが受け継いでいる終南門派の形意拳と八卦掌は、張占魁が王樹金先生に伝授したものです。
張占魁の形意拳も、李存義の形意拳も、概ね同じといえますが(両者とも河北派)、片足で独立歩として立った際の、もう一方の脚の寄せ方に若干の違いが見られます。それでも尚雲祥系統より遥かに共通性は高いです。
八卦掌については、張占魁、程廷華ともに漢人であり、しかも近しい兄弟弟子であるため、八卦掌の形は同じです。しかし王樹金先生の八卦掌は、簫海波の指導を受けたため、立掌に沿えるもう一方の掌の置き方が、少し異なっています。
因みに、董海川の高弟である尹福が伝えた八卦掌は、満州人に向けた八卦掌で、漢人に向けて伝えられた程廷華の八卦掌とは、大きく異なっています。最大の違いは、程派八卦掌では踵を滑らすようにして、かつノシノシと踏みしめるように歩くのに対して、尹派八卦掌ではつま先で緻密な細かい動きをするというところです。すばしっこい動きが尹派の特徴です。
しかしながら、簫海波の特徴的な構え方は、尹派八卦掌の王壮飛にも見られ、また王壮飛の八卦掌は、尹派でありながら、踵を踏み込む程派の動きをしています。八卦掌には謎めいた世界と背景があるようです。
Q. 王式太極拳誕生の経緯を教えて下さい
A. 王樹金先生は、大陸時代に太極拳との接点は、持たれていなかったようです。南京中央国術館には、さまざまな流派の先生が関わっていましたが、現代のカルチャースクールのように、簡単に学べるものではありませんでした。その南京中央国術館に「陳泮嶺」先生がおられ、副館長を務められていました。陳泮嶺先生は、太極拳にとても明るく、秘伝と言われる楊派太極拳と、実戦的なことでも知られている呉派太極拳を楊少候、呉鑑泉より深く学ばれ、陳家溝に伝わっている陳式太極拳をも研究されていました。そして南京中央国術館時代に、楊派と呉派をベースとして、研究している陳派も加えて、更に八卦掌と形意拳の理論を加えて、新しい太極拳を創造されました。これが『九九太極拳』です。陳泮嶺太極拳とも呼ばれます。そしてこれが99式であることが、とても重要なのです。何故なら、99という数自体が、中国の思想の世界で、「平安」「調和」を意味するものだからです。一部の団体では、これに1式加えて、100式太極拳としているところがあるようですが、それは創始者に対する冒涜に他なりません。王樹金先生は、創始者の陳泮嶺先生を、大変尊敬されていて、99式の数を変えるようなことは、されませんでした。(王樹金先生は、道教の思想を修められていたので、99の数字の意味は、理解なさっていた筈です。)王樹金先生は、太極拳については、陳泮嶺先生から学ばれたのです。一部の団体内で、王樹金先生は若手でありながら、非常に技術が卓越していたので、九九太極拳の編纂に関わって、助言を与えたと紹介されている様ですが、それは誤りです。王樹金先生は、その時点では、太極拳に関する限りにおいて、素人同然の立場でした。張占魁自身、太極拳を専門的に学んでいなかったので当然ではありますが。それでも、むろん推手などは八卦掌に於ける対練の中で既に行っていた為、上達の早さは他の者に比べ、際立って抜きん出ていたのです。
その後、王樹金先生は、八卦掌と形意拳の形を、九九太極拳に取り込んで、改変されました。一つには、楊家太極拳の真伝を授かることが、出来なかったからだと言われます。その足らざるを補う形で、神技の域にあった終南門派の八卦掌と形意拳を九九太極拳に加味したとのことです。(事実、王樹金先生は、楊派太極拳を学びたくて、高名な継承者の幾人かに教授を打診しています。大陸の傅鐘文もその一人です。)その結果、楊派とは異なるながらも、ここに極めて実戦的な太極拳が完成したのです。そのような意味からすると、王樹金先生の太極拳は、「九九式形意八卦太極拳」と呼べるものですが、私たちは『王式太極拳』あるいは「王式九九太極拳」と呼ぶことにしています。
因みに1978年(昭和53年)、陳泮嶺先生の弟子が出版した冊子には、現在の台湾の99式太極拳の世界で活躍されている黄裕盛先生や陳金寶先生らが、陳泮嶺先生の弟子として記載されていますが、その中に王樹金老師は記載されていません。しかし、1957年(昭和32年)の九十九健康会の創立メンバーには王樹金老師の名前が記載されています。王樹金先生は陳泮嶺先生の弟子としでではなく、太極拳の練習生として、外門生の立場でこの九十九健康会に入会されたと考えられます。陳泮嶺先生の、懐の広さが伺えます。
尚、王樹金先生が、日本に来られることになったのは、蒋介石に、直々に名指しされたというのは正しくなく、武術家であり政治家とも通じている陳泮嶺先生の推薦によるものであることは、言うまでもありません。陳泮嶺先生は、王樹金先生を、自分の弟子だとは言われませんでした。陳泮嶺先生にとって、王樹金先生は、歳がいくら離れていても、親友の間柄だったのです。渡台されて再会を果たされた時の、喜ばれようからも、如何に陳泮嶺先生と王樹金先生とが、厚く深い信頼関係で結ばれていたかが分かります。その弟子たちが、お互いを批判したり、相手を蔑ろにするようなことは、絶対にしてはならないことです。そのような振る舞いは、あの世の陳泮嶺先生と王樹金先生を、最も悲しませ、嘆かせることであることは、間違いありません。
Q. 王樹金先生が、楊派太極拳の教えを乞おうとされたのは何故ですか。
A. 王樹金先生は、台湾で「中国太極拳倶楽部」に所属されていました。代表者は、陳泮嶺先生でした。陳泮嶺先生は、大変人徳のある方で、通常「内門」のみに伝える技を、「外門」であった王樹金先生にも技を教授されました。その中国太極拳倶楽部には、錚々たる顔ぶれが揃っていました。アメリカやヨーロッパで高名であった鄭曼青や、韓慶堂らも所属していました。
教授は台中の農場で行われていましたが、あるとき王樹金先生は、鄭曼青と推手を交えることになりました。その推手で、鄭曼青は不覚をとらされることとなり、面子を潰されたと感じた鄭はその仇をとるため、一番弟子の黄性賢Huang Xingxian
と試合をさせようとしたのです。黄は白鶴拳の達人でもありました。むろん太極拳の練度も高いものでした。危機感を覚えた王樹金先生は、通常の練習以上に、王向斎より学んだ大成気功に、その鍛錬の時間を割いたと述懐されています。黄に勝るためには、圧倒的な内功のレベルをあげるより他ないと考えられたようです。幸い、王樹金先生は鄭曼青と和解され、立ち会うことはなかったのですが、太極拳の強さを身をもって知っておられ、その教授を受けることが必要だと認識されていたということが、様々な楊派太極拳の継承者に教えを乞おうとされた理由のようです。柔らかい動きの楊派が如何に強かったかを物語る話です。楊露禅の強さは、それほどまでに圧倒的だったのです。ちなみに王樹金先生に、大成気功を伝授した王向斎は、郭雲深から形意拳を学びながら、楊家太極拳と心意六合八法拳をも学んでいたとされます。多くの武術家が、太極拳の優れた技術を求めていた訳です。
さて、形意拳や八卦掌、及び陳式太極拳と、王樹金先生が教えを乞われた楊派の太極拳との一番の違いは、前者が螺旋の勁力で相手を圧倒するのに対して、後者は陰陽虚実の原理による独特の動きによって、相手の攻撃を無力化するところにあります。
前者を象徴するマークがであり、後者を象徴するマークがという訳です。
前者の場合は、台風の目の渦の如き、強力な螺旋の力で、ドリルでこじ開けるようにねじ込んでいくのが特徴で、一撃で相手を粉砕するような散手を行うのが特徴です。
後者の場合は、常に虚実陰陽を転換しながら、相手に中心をとられないように、変幻自在に変化していくのが特徴です。組み手では常に相手の弱いところの陣地を取っていき、より有利な位置を取り合う囲碁のような攻め方になります。動作も、より省エネ的なものとも言える訳です。そのような優れた点に王樹金先生は気がつかれていて、楊派の技術を乞われていたのです。